デジタル写真の産声(2)

(前回の続き)

そんなフィルム時代の1981年にソニーがフロッピーディスクに映像を記録できる「電子スチルビデオカメラ」の試作機を発表しました。初めて静止画をフィルム以外に記録する商品としてのデジタルカメラの元祖の誕生です。この頃のソニーさんはチャレンジ精神が旺盛でしたね。

しかしながらパソコンなど一般に普及していない時代だったので画像はテレビで見る為アナログ信号で記録され、純粋にデジタルカメラとは言えないのですが。

その後1986年にキヤノンが世界で初めて「電子スチルビデオカメラ RC-701」の市販に踏み切りました。本体価格は39万円、システム一式で500万円でした。その価格から報道用に使われた程度で一般に普及する事はなかったようです。

RC-701

 

 

 

 

 

1988年になるとソニーからフロッピーディスクに画像を記録する「電子スチルカメラMVC-C1」が「Mavica(マビカ)」の愛称で発売。10万円を切る価格で一般の人も手に入れられる商品として注目を浴びました。

画素数は28万画素で一枚のフロッピーに50枚の画像を入れられたようです。

1988年発売 Mavica

 

しかし撮った画像を再生するには別売のユニットが必要で、マニア以外に浸透する事はなかったようですが、未来に向かって果敢にチャレンジする企業姿勢が垣間見られます。

 

 

 

その年の12月にはキヤノンからRC-701の後継機RC-250(Q-PIC)も10万円を切った形で販売され、ヨーロッパで人気を博したとか。

画像形式は現在のJpegではなくHi-Band方式でアナログ信号方式でした。

その後パソコンの普及と共に画像形式はJpegへと統一されデジタル方式へと移行していくのです。…。

そして1995年に液晶画面を備えた画期的な「カシオQV-10」が発売され、現在のデジカメの原型となる商品が発売され既存カメラメーカの歴史を大きく変えていくのです。

その辺の経緯はまた後程。

画像出典元:(Mavica)→(我楽多)(Q-PIC)→(キヤノンカメラ史

デジタル写真の産声

古い話で恐縮ですが、デジタルカメラ誕生の歴史をちょこっと…。

1979年から1980年にかけてアメリカテキサス州の富豪ハント兄弟による銀の買い占め騒動がありました。

世界各地の富豪と手を組み全流通量の半分を買い占めた騒動です。

当時の銀価格は1オンス2ドル弱だったのですが忽ちのうちに50ドルにまで高騰しました。

ご存じのように写真フィルムは銀を使っています。

赤、緑、青に分かれた感光物質のハロゲン化銀に光が当たり変色する原理から成り立っています。

全銀消費量の25%を消費していた世界のフィルムメーカーは大いなる危機感を抱いた事でしょう。

しかし銀価格が急騰した事により買い手が見つからず、またヨーロッパの家庭にあった銀食器が換金の為に大量に潰され市場に出回り、アメリカ合衆国も銀の備蓄を大量に放出した事により、銀価格は急落、それを買い支える為ハント兄弟が資金を再投入するも買い支えられず破綻いたしました。

その騒動に危機感を抱いたのか因果関係は不明ですが、その翌年からCCDやCMOSセンサーを使った写真のデジタル化が進むのです。

既にコダックでは1975年にデジタルカメラを発明していましたが、積極的に商品化していったのは日本メーカーでした。

コダックはせっかく先行しながら利益率の高いフィルム市場に頼りデジタル化へのシフトが遅れ、後に破産申請する事になるのです。

フィルム時代の写真・DPEプリント店は本当に儲かったそうです。

自動DPE機を導入したお店のご主人が「打ち出の小槌のように儲かった」と当時を振り返ります。

世は正にカメラブームで写真プリント1枚出す度にお金を刷っているような感覚だったと言います。

またフィルムは現像する事により銀が溶け出します。

その廃液を業者がお金を出して引き取って、精製し銀を回収します。

普通の写真店でもそうだったのかは不明ですが、製版会社は製版フィルムを大量に使用していたので定期的に業者が回収に来ていました。

1996年米投資家のウォーレン・バフェット氏による銀の買い占め騒動が再び起こった際、勤めていた製版会社に見知らぬ業者が訪ねてきて廃液を高値で引き取ったりして、業者間による廃液の奪い合いが起こりました。

現在はデジタル化が進みフィルム現像する事が減ってきた事と、製版フィルムの銀の含有量も減った為お金を払って処理して貰っている現状です。

そんな銀塩フィルム全盛の頃、カメラのデジタル化が産声を上げるのです。